主は我が避けどころ
詩編(시편)57:7-11
本日の本文はダビデがサウロを逃れて洞窟に行った時の内容であります。ダビデの現実はより暗い、深刻な状況であったのです。1節「憐れんでください神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし災いの過ぎ去るまであなたの翼の陰を避けどころとします。」
現実は深刻であるにも関わらず、1節のように告白出来る秘訣は4節に書かれています。4節「天から遣わしてください神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。わたしを踏みにじる者の嘲りからわたしを救ってください」
しかし、6節にも同じように告白しています。
6節「神よ、天の上に高くいまし栄光を全地に輝かせてください。」、そのような状況の中でもダビデは7節「わたしの魂は屈み込んでいました。彼らはわたしの足もとに網を仕掛けわたしの前に落とし穴を掘りましたがその中に落ち込んだのは彼ら自身でした。」、8節「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにしてあなたに賛美の歌をうたいます。
ここで「確かにします。」と言う言葉は固定されました。準備されました。と言うことであります。
しかし、ダビデはこの言葉を2回も繰り返して言っています。
これは確かにダビデの信仰の告白でしょう。必ず神様はどんな時にも避けどころであることです。ダビデも普通の人です。
特別な人でもありません。4節と6節を見ますとその時の状況がよく表現されています。神様の接触してくださる慰めを体験しましょう。ダビデはやはり神様に触れられた慰めを体験したので、このような慰めに感謝をすることが出来ました。
今の時代も洞窟のような試練もあります。その中にあっても
神様は機能的な天のお父様ではなく、接触し、柔らかい御方、
暖かい神様です。この神様に触れられる時に恐れから平安が訪れます。ですから危機が来ると神様に避けるのです。
人間的な手段ではなく、ダビデのように「災いの過ぎ去るまであなたの翼の陰を避けどころとします。」
主を信頼し、主が我が避けどころであることを信じる。