母の主日・野外礼拝 「主を賛美する信仰」
詩篇95:1-9節
本日は母の主日であり、野外礼拝の日です。神様が創造なさった大自然の中で礼拝を捧げることが出来て感謝です。
私たちは毎日が神様の恵みを足りることなくいただいています。しかし、私たちはそれを悟る時もあり、悟らない時もあります。1-2節「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって
喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。」実は詩編95編は喜びよりむしろ悲しみを叫ぶこと、泣き叫ぶことを表現しています。
その当時のイスラエルの状況はあまりにも混乱している状況でした。7-11節「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
わたしは怒り彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」、なぜ、イスラエルはこのような厳しい状況になったのでしょうか?主に逆らい、不満不平を言うことによってそのようにされました。8-9節にも書かれていますが、「「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑にしてはならない。 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。」と言うことでした。
そのようなイスラエル民に神様は10節「四十年の間、 わたしはその世代をいとい心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。」その結果、エジプトを出た一世代のイスラエル民は荒野で亡くなりました。詩編を書いた人は今の自分はまったく同じような状況であると言うことです。
ですから今からでも礼拝を回復し、神様を喜ばせることが出来る礼拝を捧げましょう。と言う願いが込められています。
心から喜びを持って礼拝を捧げる信仰者、心から喜びを持って賛美や祈りを捧げる信仰者、それが真の信仰であります。
主の臨在のない礼拝、賛美、祈りは無気力な信仰です。
主の臨時がある礼拝では喜びと感謝、感動が溢れます。
私たちが信じる神様は3-5節表現されています。