新たにされる祝福
コリント第二5:16-21
今週から四旬節(レント)に入ります。復活節まで心を静めて祈る時間です。16-17節「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」、ここで「今後」という言葉は以前とは違うことです。それではなぜ、今後でしょうか?未来でもなく以前でもなく、それを説明する単語が「それで」と言う言葉です。しかし、「それで」という言葉を使っている理由を14節では「死」であることです。14節「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」、キリストの死は他人の死ではないからです。主は私たちのために十字架を背負い死んで葬られましたが、しかし、私たちキリスト者は人を憎んだり、争ったり、分裂を起こしているのです。15節「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」、ガルバリ丘の十字架はキリストと罪人である人間を和解させて下さるのです。
家庭から愛されていない人がいるでしょうか?職場で
疎外されているでしょうか?教会の中で今でも受け入れない人がいるでしょうか?それでは時間を変える時が来ました。罪人を赦すキリストの衣装で着替えしませんか?あのガルバリ丘の十字架は人々を和解させる力があります。パウロは続けて進めています。
19節「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」
今年の四旬節は和解の祝福をいただきませんか。