油が注がれる時
イザヤ61:1-3
1節「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」
イザヤ預言者は来るべきお方、即ち、メシヤの預言であります。メシヤが油注がれて、これから働く、その働きの本質を言葉で表現しているところです。単純にメシヤは人類を救うために来られたと言えるでしょう。しかし、その救いは具体的に人々にどんな意味を与えるのかを言語で表しているのです。
イザヤ61:11節「大地が草の芽を萌えいでさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
1.心が砕かれた人に癒しを与える。心の傷は簡単には治りません。外的な傷は治りますが、しかし、聖霊の油注ぎがあれば、
傷が癒されるのです。詩編23:5節「わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」
油が注がれていない人生、油注がれることに全く経験がない人生、2.捕えられた人に自由を与える。2節「主が恵みをお与えになる年わたしたちの神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰め」、奴隷や刑務所に入っている人に自由を与えるのです。これは神様の恵みであります。
2000年前イエス・キリストがこの地上に来られて、働きを始まった時、ルカ4:16節以下「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、」
イザヤの時代はバビロニアの捕囚の時代でした。しかし、彼らにとっては捕囚から自由になって欲しい気持ちでした。
3節「シオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。」