第四週待降節(アドベント)
闇を照らす光
イザヤ9:1-7、
最近では毎年12月になりますと、教会の人ばかりでななく、教会と何のかかわりもない人たちまでが、クリスマスを楽しむようになりました。それは、アドベントとクリスマスの時節には、何となくあらゆる人の心に訴えるものがあるからではないでしょうか。人間の心の中に善というべきものがあるとするならば、この時節(じせつ)はこれを呼び出し、明らかにするようです。
イギリスの詩人(しじん)アルフレッド・テニソンは、ある詩の中で、「何と言っても、善を実行するということは、崇高(すうこう)なことである。」と歌いましたが、毎年、この時節(じせつ)になりますと、クリスマスを待ち望むことによって、この「善を実行する心」「より良い人間になりたい心」が、何となく呼び出されるように思われます。かえて、イエス・キリストを神の御子として信じ、イエス・キリストを主として従おうとする人にとって、今の時節は、実に意味深い時であります。
間もなく、全世界のあらゆるキリスト信者と共に、私たちもクリスマス礼拝を守りますが、主イエス・キリストのこの世におけるアドベント、イエス・キリストの到来(とうらい)、つまり、イエス・キリストの御誕生が、私たち21世紀の者にとって、どのような意味をもっているのかをいよいよ深く考えさせられます。
愛する皆様この聖なる時節において、神はどのようなことを私たちに語ろうとしておられるのかが、一つの大きな課題だと思います。キリスト信者たる者は、クリスマスを霊的に迎えるのに、どのような準備をすべきか、どのようなものの見方をもって、クリスマスを迎えるべきか、いかにして、キリスト信者として、真のクリスマスにあずかるかを、私たちは一人の残らず、新たに神様から教えて欲しいと願っていることと思います。
こういったことを考えながら、待降節(たいこうせつ)の間は、ルカ1章の中から、あるいは、マタイ1章の中から、御言葉を取り上げ、アドベントの説教をします。本日のテキストのところは、イザヤの歌っているこの預言の言葉は、メシヤ待望(たいぼう)の精神(せいしん)に満ちていますから、初代教会の時代から現在に至るまで、あらゆる時代にわたって、このイザヤのメシヤ待望関係の文章を読んでいるキリスト信者は、主イエス・キリストのことを思い起こさずにはおられません。
特に、イザヤ9:5の言葉は最初のクリスマスのことを思い起こさせます。