第一週降誕節(アドベント)
パウロが受けた裁判(3)
使徒26:1-18
1節「アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。」
パウロは自分のために弁明する機会が与えられているにも関わらず、自己弁明をしないのです。2-3節「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。 王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。」パウロは最後まで自分の話を聞いてくださるようにアグリッパ王にお願いしているのです。パウロの心の中にはただイエスについて話をしたい心で充満したと思います。4-5節「さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。」
パウロは法廷においての自己弁明ではなく、信仰的な証しをしていることです。私たちは24,25章でもパウロが裁判を受けましたが、彼の心の中にはどんな状況に置かれてもパウロはイエスを伝えたいと思う心でした。私たちにはこのような心がどれほどありましょうか。6-7節「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。」、パウロはユダヤ人が待ち望んでいるメシヤがイエスであることを復活を通して信じるようになった人でしたのでアグリッパ王の前にも大胆に伝えているのです。私たちも復活の確信を持っている信仰であれば、どこでも
主イエスを話すことが出来ます。今週からアドベントに入ります。イエスがお生まれになった聖誕節の喜びを今から黙想して行こうではありませんか。