18節を見てみましょう。 「ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。『目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。』
これは私たちの主を紹介する部分です。私たちの主は、ご自身を紹介する部分です。 ここで「目が炎のようだ」という言葉は、私たちの心や霊を透かして見られる主の目を意味します。
つまり、私たちの考えや心をすべて見られるということです。私たちの主は、人間の考えや計画をすべて見られています。
23節を見てみましょう。 「また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。」人の心と意志を測る方が主であるということです。
教会は必ずこれを理解しなければなりません。人の意志と心を測る方がまさに主であるということです。「輝き、真珠のような足」という言葉は、主の権威、すなわち審判の権威を意味することもあります。私たちの心と意志を完全に透き通るように見透かされるその方は、審判の権威も持っておられることを意味します。
そのような方はまさに神の御子です。ここで「神の御子」という言葉は、マタイ28章18-19節を参照しています。「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」、天と地のすべての権威を持つその方、すなわち神の御子であるその方は、炎のような目と、鉄のような足で私たちを監視し、私たちを裁く権威を持っています。
神の御子、権威ある方であると明言しています。
その方がティアティラ教会に手紙を送ったのです。私たちの主は、常に手紙の冒頭に称賛の言葉を添えています。
19節を見てみましょう。「「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。」ここで「事業」とは企業のようなものではなく、主の御業を指します。