パウロの涙
使徒20:17-27
17-18節「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。」
14章23節を見ますと第一伝道旅行の後にも同じように頼んでいることが分かります。14:23節「また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。」、パウロは第一、第二、第三伝道旅行を終えて、それぞれの教会、特にエフェソ教会などの長老たちの招いた思います。パウロはこれで最後になるかも知れないと言う気持ちで話しをしたと思います。19節「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」パウロは涙をしながら勧めていたに違いはありません。ここで「仕える」と言う言葉がありますが、パウロの牧会はまるで仕える精神で教会を指導し、教え続けて来たと思います。だから、涙をするのは当然でありましょう。ユダヤ人の数々の陰謀によっても忍耐を持って教会に仕えたと思います。ですからパウロの手紙では忍耐について強調しています。ローマ5:3-4節、コリント第一13:4節などにも書かれています。20節「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。」パウロの関心は福音伝道でした。ティラノで二年間は毎日聖書を論じたと言うことです。21節「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。」、パウロはユダヤ人にしろ、異邦人にしろ悔い改めとキリストに対する信仰や救いについて強調しました。22節「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。」、自分の思いではなく、聖霊の導きですと言うことです。どんなことが起きるのかについては、23節「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。」聖霊に従うパウロの信仰を手にしませんか。パウロは福音のために涙を流しました。
私たちも福音のために涙を流す信仰者になりましょう。