野外礼拝
恵みから恵みへ
フィリピ4:19-23
20節を見ます。「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」。
一般的に私たちが神様に栄光を捧げるというのは、良いことがあった時、子どもが成功した時、事業がうまくいった時、神様に栄光を捧げる。私たちが何かを受け取った時に神様に栄光を帰すというのは理解できます。
しかし、私たちが献金をしながら、神様に栄光を捧げると告白したことがありますか?
そのような意識を持って献金をしていますか?
私たちが献金することで、神様に栄光だと言ったことがありますか?パウロが2回以上献金の話をした後、結論として、受け取る者も栄光がありますが、与える者も栄光です。
聖徒の人生の結論は、「神様に栄光」です。
ピリピ1章20-21節、「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。 死ぬことと生きることが神様に栄光である、キリスト教の最大の逆説である、ということです。このようなとんでもない逆説がどの宗教にありますか?世俗的に死とは絶望であり、終着点、終わりです。しかし、キリスト教は死ぬことさえも栄光です。
つまり、受けることも神に栄光であるが、与えることも神様に栄光です。コリント(第一)10:31節「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」。私たちが当たり前に考えていること、何も考えずに食べたり飲んだりすることさえも、神様に栄光を捧げなさいと言われます。当たり前のように飲む水、食べる食べ物ですが、このようなことさえも神様に栄光を捧げなさいと言われます。経済的に余裕ができたことが神様に栄光ではなく、献金をすることができたことも神様に栄光です。
私の通帳がマイナスになっても栄光であり、プラスになっても栄光です。時には恥ずかしいこともあったが、それにもかかわらず、私たちは神様に栄光をもたらす信仰者にならなければなりません。