ただ、信仰
フィリピ3:4-9
今日の本文がパウロに与える教訓とはなんでしょうか?
揺るぎない信仰になるための方法です。その揺るぎない信仰とは「しかし」の信仰です。
4-7節を見ますと、「とはいえ」や「しかし」と記されています。4節は、「とはいえ」から始まり、今、ユダヤ教の律法主義者に対して、パウロ自身も彼らと同じように律法主義者であったことを強調しています。7節には「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」とあります。再び記されている「しかし」。私たちにも「しかし」がありますか?パウロとユダヤ教の律法主義者との違いは、まさに「しかし」です。前の節の「しかし」とは違って価値観が変わったということです。ヘブライ人への手紙11章24 -26節を見ます。
「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。」
神様のためにモーセの価値観が変わったことを強調しています。王室でうまく生きるより、苦難があっても神の御心に従って自分の同族と苦しみと痛みを共にする者になるという価値観が変わったのです。
私たちがよく知っているザアカイについて、ルカ19章2節を見ます。「そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」。ここに記録された徴税人の頭、金持ちという2つの言葉はザアカイをよく表している言葉です。
人に罵られてもいい、お金さえ多ければいいという時代ではないでしょうか?同族に罵られても、ローマ政府と結託して、妥協してお金さえたくさん稼げばいいというこの時代ではないでしょうか? まさにザアカイがそのような価値観を持って今まで生きてきたのではないだろうか?しかし、イエスに出会ってザアカイの価値観が変わります(8節)。これは非常に驚くべき価値観の変化です。
私たちもこのような変化、「しかし」の信仰がありますか?このように変化した価値観を持っているのでしょうか?