2025年2月16日 Ⅰコリント12:22-27

武庫川教会 0 2

 

キリストの体として

Ⅰコリント12:22-27

 

体には目や鼻、手足など、それぞれ異なる役割を持つ部分があります。目は見ることができますが、音を聞くことはできません。同様に、体の各部分はお互いを支え合いながら成り立っています。 コリント教会では、当時、異言の賜物が特に重んじられていました。パウロはすべての賜物が互いに補完し合い、どの役割も欠かせないことを語るために、教会を「体」にたとえました。そして、教会に連なる一人ひとりがその部分として重要な役割を担っていることを伝えています。

教会には様々な人がいます。様々な人がいるからこそ、自分と他者を比べて劣等感を抱いたり、自分の弱さを恥じたりすることがあります。しかし、神様は私たちの「弱さ」や「見苦しい部分」と感じるマイナス部分も含めて造られました。旧約聖書には、神様が造られたすべてのものは「とても良かった」とあります。私たちが抱くマイナスの感情は、社会の価値観によって生じるものに過ぎません。 

私たちは完全な存在ではありません。一人ひとりの持つ弱さや見劣りする部分であるマイナス(-)は、他の人のマイナスと交わることでプラス()になることができます。その交わる真ん中には、十字架を背負われたイエス・キリストがおられます。キリストは私たちの苦しみを背負い、その愛によって私たちをつないでくださいます。私たちが出会い、交わる時に、喜びは倍増し、その喜びを他の人と分かち合うことができるようになるのです。

私たちの真ん中にいてくださるイエス・キリストの十字架という愛によって、一人ひとりが互いに関わり合い、支え合うことができることを、そして、私たちはキリストの体の一つの部分であることを覚えて、新しい一週間を過ごしていきたいと願います。

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