四旬節第3週 十字架を背負って
マタイ 16:21-25
本日の本文は主イエスがご自分の受難を公に初めて予告している部分です。21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
ここで「このときから」というのは、16:16節以下に書かれているペトロの告白をした後、すぐのことであります。ペトロは主の十字架と死についてあまり理解が出来なかったと思います。 「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」このようになぜ、ペトロが理解が出来なかったんでしょうか?それはユダ人が望んでいたメシアはローマから
政治的な独立するをすることでした。
ユダヤ人の法は律法でした。これは極めて自己中心的、物質的、利口中心的なものでした。しかし、イエスはユダヤの王として来ておりません。イザヤ53:5節「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
十字架のない福音は偽りです。イエスを信じて生きることは救いではなく、一つの実りであり、結果です。十字架のないキリスト教は偽のキリスト教です。十字架のみが神様の呪いから守られます。神様の呪いと怒りから守られるのはやはり十字架です
。十字架は自分を否認することです。
自己否認することは自分の自我を捨てることです。
自己を愛することは利口的な愛を意味します。
自分の十字架を背負って行く信仰者になりましょう。