ローマ(로마)11:11-24
ユダヤ人の高慢
パウロは自分の同族であるユダヤ人をどれほど愛しているでしょうか?ローマ9:1-3節「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」パウロの自分の同胞の救いを切に求めているのです。
本日の本文でも11-12節「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」パウロは常に主張している内容は
①自分の同族であるユダヤ人は不信の状態ですが、それで終わるのではなく、再び起き上がることです。
②自分の同族がこのようになっているのは神様は異邦人を救うために用いていることであるということです。
③異邦人の救いは自分の同族ユダヤ人にとって嫉妬となり
再び、神様の前に戻ってくるために用いられていることです。使徒9:15節「すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」
神様はパウロの心と違い、ユダヤ人よりむしろ異邦人を救いたいということです。さて、パウロの率直な気持ちは、
13節「では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。」、しかし、パウロの心境はどうでしょうか?
ガラテヤ2:8節「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」