神の憐み
ローマ(롬)12:1
ローマ書は2つに分けられます。1-11節は教理的な部分が書かれていますし、12-16節は教理を土台にして、生きる倫理、実践などが書かれています。
ある神学者は前半(1-11節)は私たちがどのように信じるかについて記し、後半(12-16節)は信じる者たちがどのように行動するかについて記されていると語っています。さて、1-2節は12-16章全体を圧縮しています。1節「こういうわけで」という接続詞ですが、この単語は1-11章をつなぐ大切な単語です。即ち、神様が私たちを救うためにどのようなことをなさったか?それを知っているでしょう。また、神様が私たちを救うためにどのような恵み、憐みを与えているかについて、皆様はご存じでしょう。それであるならば、1-11章までのことを知っている信仰者ではなく、12章からの実践的な信仰を
持って生きるべきであると言うことです。
多くの信仰者は教理的な部分である1-11章の信仰に止まって、12章以降の信仰生活しない人が多くあるからパウロはローマ書を通して勧めています。
ヤコブ2:17節「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
2:26節「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」
2:20節「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」
これから私たちも1節「こういうわけで」と言う言葉を持って12-16章を実践する信仰者になりたいです。教理も大切ですが、教理的な信仰になってしまいますと、バランスが崩れた信仰になる可能性があります。1節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
神様の憐みは私たちの生きる行為の根拠となります。