十字架の道
コリント(第一)1:17-2 5
四旬節も今週で終わり、いよいよ来週から受難週間に入ります。特に25日主日はキリスト教会では「棕櫚主日」とも言います。キリスト者にとって十字架はどういう意味を
持っているでしょうか。
1.十字架は神の力です。
18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
アブラハムはイサクの代わりに神様から用意された羊を捧げられたことと同じように、神様は私たちの罪の身代わりとしてイエス・キリストの十字架を用意して下さいました。その十字架は贖罪の力があります。
主イエスが十字架にかけられることにより多くの人を導きました。十字架の力は愛の力であります。
主イエスが導く力は持続的な力であります。その広さは子供から大人まで影響力があります。主イエスの場合は
生きている時よりむしろ神様の御座についてから導かれた人々が多くあります。十字架に導かれることは神様の恵みです。神様の恵みがなければ不可能であります。
十字架の道は自分の十字架を背負って行く道です。
2.十字架は神様の知恵です。
主イエス・キリストは十字架にかかり死なれた出来事は罪人である人間を救うための神様の知恵でした。
24節「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」聖書で言われて罪とは「神から離れて自分の好きに生きたいことを求めることであります。
3.十字架は伝えることです。
17節「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」、福音は伝えなければなりません。
しかし、人間の知恵だけではなく、十字架そのものを使えることであります。