愛による喜び
ヨハネ(第一)1:1-4
使徒ヨハネはこの手紙を通して「喜び」と言う言葉を何度も繰り返しています。聖書で言われている「喜び」と言う言葉は「幸せ」とは違う次元であります。幸せと言うのは私たちの生活の中で起こることにより感じる感情でありますが、「喜び」と言うのは私たちの中にある信仰によって、私たちが告白することであります。ヨハネによる福音書は主イエス・キリストにより救われる救いに関する話が書かれていますが、ヨハネの第一、第二、第三の手紙は救われた私たちが主イエス・キリストと共に歩み、その中にある交わりの中でどのように聖化して行くのかについて書かれています。
そして、ヨハネ黙示録は再び来られる主イエス・キリストを仰ぎ、その栄光について書かれています。
1-2節「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」人間の体をもってこの地上に来られた主イエス・キリストをヨハネが見て、聞いて、触った事実を語っているのです。私たちが何かを理解をするためには「木を理解するためには木になり、岩を理解するためには岩になり、傷をつけられた人の痛みを理解するためには、その人を見て、痛そうだなと思うだけではいけません。
その人を見て、自分も傷をつけられた人になることが大切でありましょう。そうすることにより外面的ではなく、心を理解することが大切です。
ヘブライ13:8節「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」私たちが受肉した主イエス・キリストを経験して救いに預かることは、この地上で私たちが私たちの罪を赦されるためには時間と概念が必要であります。
私たちが御言葉を伝えることはキリストを伝えることです。
そして、私たちが御言葉を聞くことはキリストを経験することであります。説教は知識を伝えるのではなく、キリストを伝えることです。その時に御言葉は「命」である。
ここで命は生物学的なものではなく「永遠の命」であります。