絶望から希望へ
ホセア書2:14-15
6節「わたしはその子らを憐れまない。淫行による子らだから。」、9節「彼女は愛人の後を追っても追いつけず尋ね求めても見いだせない。そのとき、彼女は言う。「初めの夫のもとに帰ろうあのときは、今よりも幸せだった」と。」ここで教えていることは、その時は知らなかったことが後になると理解が出来る場合があります。しかし、神様は私たちが間違かった道に行くと私たちの中に介入してくださるお方です。
その方法を14-15節で紹介しています。
14節「それゆえ、わたしは彼女をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう。」、まず。「荒れ野に導き」
ここで荒野と言うのは、激しい意味、厳しい意味です。
もちろん、荒野で訓練を受けるからと言って、全部が良い結果が出るのではありません。イスラエル民の40年間荒野の生活を受けましたが、カナンの地に入ったのは荒野の一世代ではなく、二世代、三世代が入りました。しかし、なぜ、荒野に道きますか。それは神様と共に歩むことを教えるためです。荒野は孤独、寂しさを象徴しています。しかし、その荒野に主と共に歩む人生は寂しくありません。決して孤独な人生でもありません。
荒野には何もありません。人間的には寂しい、孤独でもあっても、主が共におられますと喜びが溢れます。
人々と交わることが満足を与えるのではなく、主と共に歩むことにより絶望から希望へと導かれます。
15節「そのところで、わたしはぶどう園を与えアコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったときエジプトの地から上ってきた日のように。」この聖書箇所は大変難しい箇所です。解釈が難しいところであると言われています。 しかし、神様は荒野で訓練した後、取られたブドウ園を再び与えると約束しています。
どういう意味でしょうか。私たちが間違かった道に入る時、それを取り上げて、神様と歩むと時には与えると言う意味です。次は「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える」、ここは
回復の預言しています。「アゴル」と言う意味は「苦悩」の意味です。「アコル(苦悩)の谷」に歩む人は希望がありません。
絶望から希望へと導く神様と共に歩みましょう。