神様は不公平なのか?
ローマ9:14-29
ローマ9:7節「また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」
ローマ9:13節「「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。」この2か所の聖書を見ますと、神様は不公平なお方ではないのかと言うことを思うのです。
聖書は神様は公平なお方であると書かれていますが、どうしてもこの箇所は理解出来なくなる箇所です。
14節「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」しかし、これと同じく6節にも書かれています。6節「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、」、14節に対する説明が15節にあります。「神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。」
しかし、この15節は旧約聖書の出エジプト33:19節の引用です。「主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」、その当時の状況を考えますと、モーセ
はシナイ山に登る、神様から十戒をいただくために行ってるですが、モーセを待ってい民たちは、忍耐出来なくなり、他の神を作り、拝んでいるのです。
出エジプト32:4節「彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。また、出エジプト32:6節「彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」ここで「立って
」言葉の原語の意味は性的な行為を表しています。
その結果はどうでしょうか?10節「今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
神様の御心を悟る信仰者になりましょう。