また、他の痛み
ローマ9:1-5
8章37-39節でパウロは本当に興奮しているように語っています。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
しかし、そのようなパウロは9章に入り、かなり落ち込んでいるようです。9章1-2節「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、」、これらの痛みは昨日、今日の話ではありません。いつもパウロの心に流されているものでした。
特に3節には「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」パウロの心は
自分の同胞であるイスラエルは神様の救いの計画を知らないのが痛みであります。しかし、なぜ、パウロはそこまで言うのですか?その答えが4-5節「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」さて、ローマ9-11章はユダヤ人に対する言葉であります。パウロは自分の同胞があまりにも神様の恵みを経験しているにも関わらず、神様を知らないことを見て心から苦しみ、痛みを感じるし、特にユダヤ人たちはパウロに対して反感を感じているのです。
コリント第二11:24-25節「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、
石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。」、自分の同胞たちがパウロを
苦しめられました。本文の3節にはここまで言わなければならないパウロの心境が書かれています。私たちも相手が自分の気持ちを知らない時が一番心が痛みます。