従順するため損すること
エレミヤ35:12-19
預言」という言葉は我々に馴染んでいない言葉である。旧約聖書の「預言」とは、将来必ず起こる何かを事前に予告するという意味ではない。
むしろ、イスラエル民族に対する神の御心がどのようなものなのかを示すものである。その目的は、神の民が主のみ旨を悟り、悔い改めることである。今日の聖書箇所もそのような観点から読むべきだ。預言者エレミヤが活動した時代は、ユダヤ王国がバビロニア帝国から侵略され、
国が滅亡の危機に置かれた時である。主は、エレミヤはもとよりたくさんの預言者を通して、神のみ心を明らかにされたが、イスラエル民族はそれを聞き従わなかった。今日の聖書箇所に登場する「レカブ人」一族は、彼らの先祖であるヨナダブが、「ぶどう酒を飲まないこと、住む家を建てないこと、ぶどう園、畑、苗を所有しないこと」などと命じた掟を守りぬいていた。それと比べてイスラエル民族は、主なる神の命令と掟を無視していた。人間の命令が守られていたが、神の命令は守られていなかったのである。その結果、
イスラエル民族に主は災いを送ると警告された。
実際のところ、ヨナダブの命令は、当時の農経文化を諦めて、遊牧生活をするという意味がある。農経文化の方が豊かで便利ではあるが、イスラエル民族が主なる神を離れ、偶像崇拝に落ちてしまう根本的な原因は農経文化にあったとヨナダブは考えたからである。
そこには、神に従い、従順するための肝心な洞察力がある。神に従順するためには、我らが楽しんでいたあるものや習慣などを神のために捨てることが伴う。
それによって我々は不便な生活を送り、損なることが多いだろう。その代わり、主は我々に主からの報い、命を約束してくださる。危機の際、主がこのような
「預言」のみ言葉を賜って下さるのは、その時こそ、
我々に真の命を与え、救ってくださるためである。