第一週待降節
主を待ち望む季節
イザヤ書40:1-11
2020年度待降節が始まりました。
教会の暦では、今週から待降節、英語ではAdvent,と言います。初代信者は主が来られることを待ち望むことにより
新年が始まるようになったのです。そして、イエスの誕生
よりも、むしろ再臨、即ち、再び来られることを待ち望む
希望の期間でした。そして、中世教会ではこの期間は禁欲と贖罪の期間でありました。
イザヤ7:14節「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」
マタイ1:23節「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
私たちと共におられる方を待ち望む季節ですから、心が
はずむ季節であります。第二イザヤと呼ばれる、イザヤ
40ー55章は主が来られる前の6世紀ごろ、バビロン捕囚
生活を歴史的な背景にして書かれたのです。
1節「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。」なぜ、イスラエルは慰めを受けるのかについて2節に書かれています。
2節「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」
ですからイザヤは語りました。3節「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」
この話を聞いたイスラエル民は過去の信仰の祖先たちが
エジプトから出て、荒野を通り約束の地に至るのです。
そして、11節に注目します。11節「主は羊飼い として群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」、主が来られることは
イスラエルを裁くためではなく、慰めるためであります。
主の待ち望むことは期待と喜ぶことであります。