口には蜜のように
黙示録10:10-11
1節を見ます。「わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり」。
ここで別の人物が登場します。力強い天使と呼ばれています。1節のイメージはまさにこの言葉はエゼキエル書1章28-29節を参照します。虹は主の御姿の姿を比喩するものです。
この言葉は黙示録4章2-3節から出ています。まるで私たちの主の御姿のようです。ここで力強い天使はイエス様そのものではなく、イエス様を象徴し、代表する天使です。
8-9章でいなご、すなわちいなごの災害がサタンを象徴するように、したがって1節の天使もイエス様を象徴する天使です。そして、その天使の足の形は火の柱のようだと記されています。
2-3節でその天使は右足は海を踏み、左足は地を踏んでいます。またペテロの手紙第一5章8節では、獅子のように吠える声、非常に大きな声で叫ぶのです。
聖書において獅子はサタンを象徴することもありますが、今日の本文では獅子は私たちの主を象徴しています。すなわち王、君主を象徴するのです。私たちの主はユダ族、すなわちダビデの子孫として現れた方です。
創世記49章9節ではユダ族を獅子に喩えています。この獅子の姿は、右足は海を踏み、左足は地を踏んでいます。
これは何を象徴しているのでしょうか?兄弟が多い家では兄弟同士がよく争います。「これは私のものだ」と物を奪い合うことがあるのです。
その意味で、2節においてこの獅子の姿は、右足は海を踏み、左足は地を踏んでいるのです。そして王としての姿、獅子の咆哮で「大声で」と3節に記されています。この姿は私たちを脅かすためではなく、この世のすべての権威を神が所有していることを宣言するものであり、それはただで得られたものではなく、自らの命を賭け、十字架を負って得たものです。
強制的に得たものではなく、自らの犠牲によって十字架を負って得たものです。
その結果得られた主の権威というものです。主の言葉が、口に蜂蜜のように甘くなるよに祈りましょう。