2025年7月13日 フィリピ4:6-7

武庫川教会 0 5

心配のことを祈りで

フィリピ4:6-7

 

 

わたしたちに最も関係しているのは、心配という問題です。

6節をもう一度見てみましょう。

ここで何もという言葉は、無感情、無感情という言葉ではありません。教会の中で聖徒が困難な問題を話すと、とても温かく聞いてくれて、共感してくれて、一緒に心配してくれる教会になりますように、一緒に共感して、一緒に感じてくれる時間でなければなりません。聖書に何も心配するなと言うのは、何の表情もなく、感覚もなく、感情もないということではないのです。

パウロがここで何もという言葉はギリシャ語のメリンラテですが、実はこのようにパウロも心配をしたのが事実です。第二コリント1128節を見ます。 ここでも心配という言葉はメリンラ語源が同じで、ピリピ220節でここでも原語、パウロがディモテを送ろうとするとき、あなたの考えを真摯に考えてという部分がメリンラテという言葉です。イエス様が山上の説教の中でマタイ627節で心配するなと言われたのは、心配というのは人の中で有益なことが一つもない、無益だということです。肯定的な部分があるものがないのです。マタイ630節を見ると、ここでは心配が信仰と直結していることを知らせるのです。したがって、心配は性格上の問題ではなく、信仰の問題だと主は言われる。イエス様はここで心配は性格上の問題ではなく、信仰の問題です。本文6節をもう一度見ます。

何もという言葉は、無関心、無表情、無感動という意味ではありません。何も心配することなく、代わりにすべてのことに祈りと願いを捧げることを教えています。心配の代わりに祈り、心配の問題を祈りの題目とせよということです。

心配のことは神様に祈っていこうではありませんか。

 

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