(四旬節第1週)
愛の十字架
ヨハネ19:26-27
2024年度の四旬節を迎えます。復活節までの5週間と棕櫚週末まで、私たちは毎年この時期を主の苦難の十字架を黙想しながら過ごす期間です。今年も祈りと御言葉で黙想する時間となりますようにお願いします。
十字架の福音は赦しの福音と言われています。
イザヤ書53章6節では、イエス様は私たちの罪を担って十字架を負われました。主がこの世に来られた目的は、私たちの罪の問題を解決するために来られました。罪は単なる理論ではなく、破壊的な力があり、その結果は死ということです。人々は新しいものより良いものが好きです。良いものは良い知らせである福音である。
福音はすなわち十字架と復活と聖霊降臨である。この福音の中にはイエス様の死と復活が共にあります。
十字架の恵みは赦しの恵みです。
イザヤ書53章11-12節で何度も強調する福音は、イエス様が私たちの罪を身をもって担ってくださったことです。私たちの罪を身をもって担ってくださったという事実です。今日の本文は、十字架につけられたイエスは、自分の母親と愛する者たちがそばに立っているのを見て、母親に向かって「女よ、見よ、息子よ。ヨハネ19:26節「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。」先に「そばにいる」に相当するギリシャ語「パレストータ」は男性単数形で、女性たちのほかにこの弟子一人だけが十字架のそばにいたことがわかる。この弟子のアイデンティティについて、12弟子以外のある他の弟子と見る見方もあるが、本書の著者であるヨハネが本書の中で自分を愛する弟子として描写している点と十字架事件が本書に詳細に描写されている点、やはりヨハネが十字架の現場にいたという事実を暗示していると見ると、その弟子が著者ヨハネであることは間違いない。
そして注目すべき言葉は主はなぜ母を女と呼ぶのか?
ここで「女よ」と呼んでいることは失礼な言葉ではありません。その当時のユダヤ人の風習であります。
主に愛の十字架を黙想する四旬節になりましょう。