神のない人々が
詩編73:1ー12(韓1-12)
1-2節 「神はイスラエルに対して心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」
詩人は自分が心が揺れ動いてあやうく足を滑らせ一歩一歩を踏み誤りそうになっていたと告白しています。
なぜ、このようなことが起こりますか?
心が清い人は試練の中でいるが、しかし、悪しき者が全てが繁栄しているように見えます。
神様が生きておられ、真に人に祝福して下さることを信じて来ましたが、しかし、自分は試練の中でいるから神様に訴えているのです。
3-11節 「神に逆らう者の安泰を見てわたしは驕る者をうらやんだ」
死ぬまで彼らは苦しみを知らずからだも肥えている。
だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。傲慢は首飾りとなり不法は衣となって彼らを包む。目は脂肪の中から見まわし心には悪だくみが溢れる。彼らは侮り、災いをもたらそうと定め高く構え、暴力を振るおうと定める。口を天に置き/舌は地を行く。(民がここに戻っても水を見つけることはできないであろう。)そして彼らは言う。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか」
そのように訴えた後、詩人は12-13節で「見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。 わたしは心を清く保ち/手を洗って潔白を示したが、むなしかった」ここは詩人が神様に属していないように感じていないのではないか?
なぜ、神様は沈黙しているのか? 神様が本当におられる
ならば、神様の子である信者たちが苦しんでいるのか?
14-16節 「日ごと、わたしは病に打たれ/朝ごとに懲らしめを受ける。「彼らのように語ろう」と望んだなら/見よ、あなたの子らの代を/裏切ることになっていたであろう。わたしの目に労苦と映ることの意味を/知りたいと思い計り」
しかし、詩人は理解が出来ない、問題が解決出来ないし、悩んでいるのですが答えは得られません。