主よ助けて下さい
詩編44:17-21
17-19節「嘲る声、ののしる声がします。報復しようとする敵がいます。これらのことがすべてふりかかっても
、なお、我らは決してあなたを忘れることなく、あなたとの契約をむなしいものとせず、我らの心はあなたを裏切らず、あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。」
この部分は神様に叫びながら祈っている様子です。
そして、20-22節「あなたはそれでも我らを打ちのめし、山犬の住みかに捨て、死の陰で覆ってしまわれました。
このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り、異教の神に向かって、手を広げるようなことがあれば、神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。」この祈りは全能なる神、聖なる神、王なる神ではなく、友たちのように祈っている姿に見られます。
自分たちに置かれている苦しみは自分たちのことではなく
神様のせいであるということであります。
全ては神様のことで自分たちが大変な状況であると叫んで
祈る姿勢であります.。特に23節「我らはあなたゆえに、絶えることなく、殺される者となり、屠るための羊と見なされています。」、26節「我らの魂は塵に伏し、腹は地に着いたままです。」神様は私たちを守り、保護してくださる神様であると信じているのに、何もしてくれない神様。
2節「神よ、我らはこの耳で聞いています、先祖が我らに語り伝えたことを先祖の時代、いにしえの日に
あなたが成し遂げられた御業を。」この部分を読みますと
信仰が強い人に見えます。神様がイスラエルを導いてくだって、自分たちは何もしてなかったということであります。カナアン地に入り、他の部族からの戦争も自分の力では
なく神様の助けによって勝利をしたこと、全てが神様の
力によって生かされているから神様の愛の結果であると
言うことであります。しかし、44編の全体的な雰囲気が
神様に反抗しているように感じます。
私たちもこような状況に置かれる場合があります。
上手くいかない場合の自分はどうしているのか?
主は我が助け、我が砦、我が逃れの場であります。