2025年6月22日 フィリピ4:8-9

武庫川教会 0 4

 

 

信徒らしい生活

フィリピ4:8-9

 

パウロは私たちに、イエスを信じる人はこのように考えるべきだと言い、6つの点で勧めています。

8節を見ます。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」。ここで真であるとは、真理に関することです。信仰生活に派生するすべてのことが真理から出ると言っても過言ではありません。

エフェソ613-18節に、全身甲冑を着るようにとあります。パウロは当時、ローマの兵士たちの服装を見ながら聖書に適用させたのです。信仰生活をする私たちがどのように霊的な武装をしなければならないのでしょうか。14節を見てみますと、「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け」とあり、帯を真理に例えています。私たちの服装が全て腰帯に掛かっているのです。兵士が持っている剣も腰帯につけ、特にズボンを履いていますが、腰帯が完全でなければ力を使うことができません。特に労働をする人は、腰帯が太くて大きなものをつけています。中心を保持してくれて、私たちのすべての力が腰帯から伝わるのです。

ここで言う真理は絶対的な真理、すなわち神の御言葉です。すべてのことが神の言葉から派生します。神の御言葉は真理です。神の御言葉が基準です。そのため、パウロは真理を腰帯と比較したのである私たちの体の最も中心に腰帯があるからです。何事にも敬虔でここでの敬虔とは、硬直的で何かの重みを持つように振る舞うことではないのです。

敬虔の反対語は、軽薄、つまらないという意味です。したがって、ここで言う敬虔とは、笑いのない非常に硬直した姿のことではありません。つまり、敬虔とは、周りの人を思慮深く考える態度です。私の言葉を相手がどう聞くだろうか?と常に考える姿勢です。特に、相手に批判的なことを言うときは、とても慎重に考えて話す必要があります。思慮深い心、相手を思いやる配慮、言葉と行動、このようなことがとても大切です。

テトス32節を見ます。ここで、教会の指導者を選出する基準を話しています。ここでは寛容という言葉を使うが、この言葉がパウロが言う敬虔の意味と同じです。相手を考慮し、配慮し、我慢することを言います。ヤコブ317節にも寛容という言葉があります。天国市民権を持った聖徒なら、この言葉をいつも黙想しながら生きていかなければなりません。このようなことをいつも考えるようにと言います。

 


 

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