2025年3月23日 マルコ書14:32-42

武庫川教会 0 3

四旬節第三週

切ないゲツセマネの祈り 

マルコ書14:32-42


 

今日は四旬節3週目の日曜日です。

 

長老教会の教理の中に12の信条がありますが、その中の7番目の信条がイエス・キリストに対する信仰告白です。イエス様は完全な人であり、完全な神である、という信仰告白です。この二つのうちどちらか一方を否定するだけでも異端になってしまいます。イエス様がこのような二つの人間と神聖な人格的性格を同時に持っておられたので、十字架を前にしても大きな悩みに陥るしかありませんでした。それで、この悩みを解決しようと、時折、ゲッセマネの園、つまりオリーブの木でいつも祈られました。 しかし、もう一方では、人間的性格のために十字架の苦しみ、死を避けたい気持ちもありました。もちろん、悪魔の誘惑もありました。ある時はペテロを通してこの十字架の道が妨害されたこともありました。それで、「サタン、引き下がれ」と命じられました。主が十字架を背負われた時、群衆はあなたが十字架から降りて来れば、私たちはあなたを神の子として信じると誘惑しました。弟子たちと民衆は一声で、十字架で死ぬのではなく、王になって私たちをローマの植民地支配から解放してほしいという切実な要求をしました。この要求は、実は十字架を捨てて従うことができる甘い悪魔の誘惑に違いありませんでした。

 

このような世の中の要求と神の御旨の中で、主は多くの苦悩をしたでしょうし、この苦悩がゲツセマネの園の祈りにもつながっているのを見ることができます。そして、祈った後に解決されました。弟子たちと一緒にマルコの屋根裏部屋で過越祭の最後の晩餐の後、主はゲツセマネの園に行かれました。そして、主はゲツセマネの園であの有名な祈りをささげます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。 この言葉から、私たちは主の悩みをもう一度垣間見ることができます。十字架を背負うことが父の御心であることは知っていましたが、その十字架があまりにも辛いので、この杯を私から移してほしいという祈りは、十字架を前に、主がどれほど大きな悩みに陥っているのかを示しています。十字架の苦しみがどれほど大きいかをよくご存知の主の姿でした。

 

人間的にその苦痛の十字架、その死の十字架を自発的に背負いたい人がどこにいるでしょうか。できることなら、その十字架を避けたいと思いませんか? 主もその十字架を避けることができるなら、避けるようにしてほしいと神様に3回も祈っています。

 

愛する聖徒の皆さん、主の十字架は決して安い十字架ではありません。私たちが主の十字架を信じることによって、無償の恵みで救われるのです。しかし、皆さん、無償で信仰で救われる真理を完成するために、主が背負われた十字架は、多大な代価を払い、多大な苦しみと恥を払って得た多大な高価な十字架であることを信じてください。

 

そして今日、十字架の処刑を前に最後の決心をされる時、主は油を絞るゲッセマネの園で、汗の滴が血の滴になるくらい汗の滴が血の滴になるくらい切実に祈られました。


 

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