2018.12.09 「メシアに会うまでは決して死なない」 ルカ 2:25- 35

武庫川教会 0 605

待降節(アドベント第二週)

メシアに会うまでは決して死なない

ルカ2:25-35

 

26節「そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」、ここで日本語聖書では「会う」と訳され、英語と韓国語では「見る」訳されています。シメオンと人はメシアに出会うことの希望、メシアを自分の目で確かめたいと言う願望が強くありました。ですから「待降節」はメシアを願望する時です。しかし、そのメシアが二千年前にベツレヘムにお生まれになりました。

ここで「見る」と言うことは(1)速やかになすことを意味します。(2)自分の信仰の通りに成就されることであります。さて、実際に二千前に主イエスに

出会った人、主イエスを見た人はどうでしょうか?

その当時の人々は主に出会い、主を直接に人間の目で

見ましたが、本当に信じた人はどのぐらいでしょうか?むしろ、彼らは主イエスを殺したのです。

ですから見ることが大事ではなく、信じることがより

大事であることです。一度、疑う人の目には信じ固いものしか見えません。神の御子、イエス・キリスト、即ち、メシアである方を自分の目で見ても彼らは信じなかったのです。ですから、自分の目で見るのも重要ですが、信じることがより重要でありましょう。

信仰を持って見る人には信仰の世界が見まれます。

ヘブライ11:1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

信仰の目は空間と時間を乗り越えて行くのです。

信仰の目を持っているとメシアを見ることが出来ます。信仰の目を持っていますと待ち望むことが出来るのです。主イエスを待ち望む人は信仰の目がありました。本文に出て来るシメオンもその一人です。

「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、」とこのように語ることが出来たことは彼は信仰の目があったからこのように語ったと思います。

今年の待降節は信仰の目を持って迎えましょう。

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